糸井重里さんとの対談<第2回>「たどり着くまえに考えてしまう」感想など

糸井重里さんとの対談<第2回>「たどり着くまえに考えてしまう」感想など

対談記事の第2回は「こちら」。こちらの対談は12回で終わってしまうことが分かっているので、更新頻度に無理に合わせず、ゆっくり追いかけていこうと思っています。

うーん、ただ、やっぱり、いまは、社会的なこととか、知識とか、いろんなことを知ってしまっているので、そこが子どものころとは違うかもしれませんね。自分のことばとか行動に、無駄な意味づけをするようになっているというか。たとえば、「今日は雨だ」っていうときに、ただ空から雨粒が落ちてくる、湿度が高い、暗い、というくらいの意味しかないのに、そこになんとなく自分が「憂鬱だ」とか、「ちょっと体が重い」とか、そういう意味づけを、大人になるとしてしまう。それを、知性と呼ぶこともできるけど、でも、本来はなくてもいい、邪魔な概念なんだろうなとも思うんです。だから、たとえば目標を立てたときも、「雨だ」「体が重い」「ジャンプが跳べない」とか、無駄な意味づけが生まれてしまいがちなんですよね。それがわかっているから、いまは子どものころと違って、「無駄な意味を削ぎ落とす作業」をずっと続けているという感覚があります。

今回は、羽生さんのこの発言以降のやり取りが興味深かったです。私のような一般人からすると、勉強やジムや「サボる理由」、ついつい暴飲暴食してしまう「言い訳」のような話が思い浮かぶんですが、おそらく上記部分は、羽生さんは一般的な事例で話してくれていて、本当の所はもっとスケートの専門的な話だったり、最後の方で出てくる「3.11」が根っこにある「重責」ということなんでしょう。

「無駄な意味づけ」「本来なくてもいい邪魔な概念」って、私自身について考えてみると、「他人の意見」とか「人にどう見られたいか」とか「誰それが評価しているから云々」という「外部発の情報」かなと思っています。

「これをやってみたい!」と思っても、ネットとかでいろいろ調べたり、誰かに何か言われていくうちに、「意味あるのかな?」「時間の無駄かも?」と、そのやってみたいことを断念してしまう。世の中に情報が豊富にありすぎることが、行動・決断を鈍らせる要因になってしまうんです。これってよくないことだなと思いますね。

無事にやりたいことを「行動・実践」できたとしても、上手くいかなくなってきた時に、また「無駄な情報」によって悩まされてしまう。羽生さんの言う「レンズ」の話は興味深くて、「自分が本来やりたいこと」は、ちゃんと自分が思ったままのピュアな形なのか?楽しくて、好きで始めたことが苦しいのは、外野の情報という「レンズ」によって歪められていないか?壁にぶつかった時に、立ち止まってこの辺りのことを点検することの大切さを教わった気がします。

スポーツ報知では6~12日の7日間にわたり「notte stellata」を特集。初回は、6日付紙面で大地真央の単独インタビューを掲載する。

みなさん、3月6日だけじゃないですよ。7日間にわたってのnotte特集だそうです。報知さん、凄すぎます!

では、また明日!

Jun


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