羽生はもう、一つの「現象」です。フィギュアスケートには、数えきれないくらいのチャンピオンがいますが、次第に忘れ去られていきます。
でも、中にはそうならない人もいる。「現象」となって残っていく。歴史にしっかり刻まれる。羽生結弦は、そういうチャンピオンです。世界的な「現象」そのものだと思います。
本書の第四章で登場する、ヴィクトール・ルイシキンが、宇都宮さんに語ったそうです。
この第三章と第四章というのは、私の知らない話ばかりで、たいへん興味深い内容でした。ざっくり言うと、都築先生が佐野稔さんを指導した後、どのような活動をされていたのか、数多くのエピソードが紹介されています。
都築先生は、稔さんを自分の家に下宿させ、すさまじいスパルタ指導の甲斐あって、稔さんは1977年の世界選手権で銅メダルを獲得。この大会を最後に引退します。演技後のリンクサイドで、青い上着を着て、何度もガッツポーズをしていたのが、おそらく都築先生かと思われます。
まず、都築先生のこちらの発言をご紹介したいと思います。
ところで、地方から集まる子どもたちを育てる「怖い先生」(都築先生)は、「体制」への不満も抱いていた。
「そうです。まあ、点数の出し方がね。昔はおべっかを使う人がいっぱいいて、フィギュアスケートは嫌な競技だったんですよ」
「差別というか、偏見というか。昔、フィギュアスケートは、先行していた東京と大阪に二分されておりました。オリンピックに行かれる方も、そのあたりから多く選出されていました。地方より、都会の人の方が点数が出ていたと思います。その時分は、仕組みがまだしっかりしておりませんでした。厳格なルールがあったわけではないので、ある人間の主観で点数が行ったり来たりする。当然順位もです」
「感情的な背景が、かなり重要視されていました。そういう状況で試合をした記憶があります。フェアとは言えない。ほど遠かったと思います。上流階級の趣味から始まった競技ですからね。日本のフィギュアスケートというのは。きちんとした体制が整うには、時間が掛かりました」
「虐げられていた分、地方にはハングリー精神がありました。東京優位の状況を覆そうという。私自身も、そういうエネルギーに支えられてやってきました」
「今、トップクラスの子は、ほとんど地方出身になっています。羽生だって、そうですからね」
稔さんの映像には、旧採点時代の「5.9・・・」というスコアが並んでいますが、今もひどいけど、旧採点時代はもっとひどかったのだと。今では、誤審について「検証動画」を作って、世界中に拡散して、採点のイイカゲンさを訴える動きも見られます。でも、そもそもの話、歴史的に見ると、このスポーツの「採点のひどさ」というのはもはや「伝統芸」であって、ルールが多少変わっても、そう簡単には改善されないだろうな、と改めて痛感します。
さて、前述したルイシキンという人物は、都築先生が招いた、ロシア人のフィギュアスケートの指導者。1972年の札幌オリンピックにはソ連選手団の監督として来日していました。 端折って書くのは、なかなか大変なんですが、一読して思ったのは、
スケ連という組織は、昔から、ダメダメで使えねーな!
ということなんですよね。今は、フィギュアスケート関連の記者は、まぁ、忖度ジャーナリストばかりでウンザリしますから、この辺りの「負の歴史」を暴露してくれた宇都宮さんの功績は大きいと思います。
都築先生は、1981年にプリンスホテルからダイエーに転職。当時の中内功社長にかけあって、新松戸にスケートリンクが作られます。新松戸のリンクには、都築先生の弟子だった、長久保裕コーチや、無良隆志コーチも指導者として立ち、その後、数多くのスケーターが育ったことはご存知かと思います。
かつて1970年、当時15歳の稔さんを連れて、ロシアのフィギュアスケートを生で見て衝撃を受けた都築先生は、その新松戸のリンクに、1989年にルイシキンを招聘します。春、夏、冬の年3回、一回の滞在は1ヶ月ほど。都内の都築先生の自宅や、新松戸のリンクの近くのマンションにも住んでもらったそうです。この滞在にかかる費用は、すべて都築先生の自費で、夏の滞在費だけでも300万円に達します。しかし、スケ連からは1円も出ません。
強化選手には強化費が出ましたから、それらを活用したことはあります。ただ、その他はぜんぜんでした。連盟は、タッチしたくないというのが本音だったんじゃないでしょうか。個人が勝手にやっていることに、関わりたくないという雰囲気でした。「やりたければ、やれば」みたいな感じもありました。要するに、口を出せば自分たちにも費用負担が生じますからね。ただ、招聘の手続き上、どうしても日本スケート連盟を通さなければならなかったのは事実です。国の許可を得て、ロシアと交渉ができるという仕組みでした。
都築先生は、ルイシキンを自分のリンクだけで「独り占め」したのではありません。ルイシキンは、1990年~98年まで全日本選抜選手団のコーチおよびアドバイザーという任に就き、新松戸を拠点としながら、日本各地に指導に赴きます。あの野辺山合宿にも、都築先生とともに参加しました。ルイシキンの語る、当時の「野辺山合宿」の印象が興味深いです。
音楽性という意味では、当時の日本は石器時代でした。助走をつけてジャンプ、ただそれだけ。「こんなの、どうするの?」って頭を抱えましたよ、正直。私がどんな練習を組んだかをお話ししますと、初めに曲を選びます。いろんな曲が途切れることなく流れるようなテープを作るわけです。50曲くらい、用意しました。リンクには、子どもたちが40人くらいいて、45分間ノンストップで踊り続けます。私のミッションは、一人たりともぼーっとしている子を出さないこと。それと必ず、手本を見せました。
長野、大阪、京都などを回っていた頃は交通費もホテル代も食事も、すべて都築さんが支払ってくれていました。本当に、経済的な援助は計り知れません。繰り返しますが、全部、都築さんですよ。日本スケート連盟ではありません。都築さんが旗を振って、私を、皆を呼んでくれました。ビザの手続きも連盟ではないです。10年近くの間、ずっと都築さんがやってくれました。
都築先生には、あまりにも多くのやらなければいけないことがありました。リンクを潰さないようにきちんと運営しなければいけなかったし、経済的な心配も大きかったと思います。そんな状況の中、大勢の人たちに自分の経験を惜しみなく分け与えていました。あとに、つなげていけるような土壌を作りあげた。セミナーを開催したりして、日本中に種を蒔いていきました。
・・・ただ、私は何度も怒りました。「都築さんがお金を払って、一人で苦労して、私を呼んでいるんだから、もったいないよ」って。都築さんの欠点は人が好すぎることです。・・・本来なら、都築さんの銅像を建てて称えるべきなのに、日本スケート連盟はまったく。
いまで言えば、ランビさんやハビを呼んで、日本全国のセミナーや教室に連れていく、それを自費でやっていたというだから、信じられません。
ふと感じたのは、羽生さんが「自分のセカンドキャリア」について都築先生に話している、というエピソードです。本書で明かされている都築先生のご苦労は、とうぜん羽生さんも知っているはずで、彼ならば、自費を投じて大きいことをやろうと考えていても不思議ではないですよね。
本当はもっと紹介したいことがたくさんあるのですが、高い本ではないので、ぜひご購入いただければと思います。歴史を学ぶことで、今を、また違った視点で見ることができます。明日も引き続き本書をレビューします。
では、また明日!
Jun
コメント
貴重なエピソードをシェアしてくださり、ありがとうございます!
素材は素晴らしいのに、書き手の文のクセが・・・というレビュー読んで、ちょっと躊躇してました。日本のフィギュア界の黎明期の都築先生の先見の明と献身的な指導と働きには、Junさんの行間を追うだけで目頭が熱くなってきます。
私など人に与うるものが何もない凡人のくせに、目先の利に振り回されていますので、苦労して体得した技術と知識を若い芽に惜しみなく与え、経済的負担をも厭わない先生の生き様には首を垂れるしかありません。
スケ連の救いようのない縁故主義は当時から今日まで脈々と受け継がれているんですね。スケ練の内部の体質は変わらないでしょうが、先人と現役選手たちの奮闘のお蔭で、裾野が広がり、外野の目が肥えて厳しくなっていますので、ファンは応援するだけでなく、SNSで異論を唱えたり、スケート村外の世論に訴えたり、クラウドファンディングに参加したり、選手を側面ではサポートできる時代に変わりつつあります。
地方で頑張るハングリーなスケーターは俄然応援してしまいます。
ミーシン先生の言う「とんがった針」がとんがったまま、世に出れるような土壌作りに協力すべく、クラウドファンディングには少額でも参加するようにしています。他に素人が出来ることってありますか?
もちろん、羽生さんがいつか競技を引退して、何かプロジェクトを立ち上げたら、諸手を挙げて応援する気満々です。
Fakefurさま
宇都宮さんの文体は、もともとここまで極端に文章を短く切るスタイルじゃなくて、ここ数年でモデルチェンジした印象です。良い悪いはともかく、内容自体は明快なので私はさほど気になりません。むしろ、文章は普通でも専門用語(というか独自用語)を多用しすぎる高山真さんの文章の方が、私は読んでいてキツイものがあります。
スケ連って、昔からこうなのか・・・と改めて思いましたね。事なかれ主義というか、責任回避主義というか、日本の典型的な官僚主義的組織ですよね。なるべく責任を取りたくないから、新しいアイデアが生まれないし、それを実行しようとする土壌もない。だから、出る杭を打とうとする。納得ですよ。
日本のスポーツ団体はどこもそうで、やはり、フェンシング協会会長に太田さんが就いたように、アイデアと実行力を併せ持った人が現れるのを待つしかないでしょう。荒川さんには無理だと思うので、その下の世代の誰か・・・ということになるでしょうか。
都築先生が、日本フィギュア界の発展のために これ程骨身を削ってきた方だとは、この本を読むまで知りませんでした。
フィギュアに貢献してきた人物が入るべき殿堂なるものがあるようですが、都築先生こそ該当するのでは、と思います。ルイシキンが銅像を建てて然るべきと言うのもむべなるかな。
個人的には、こういう人物にスケート連盟の会長職を担って貰いたいです。どれほど正常な組織になることか。
羽生選手が、今のように まず人間的に素晴らしく、スケートに対する真っ直ぐな気持ちを持ち続けているのも、都築先生に就いていたから、という点が大きいのでは、と思います。
出会うべくして、出会った師なのでしょうね。どうかお元気で、羽生選手の考えるプロジェクトを応援し続けて欲しいです。
ととちゃん さま
逆にスケ連に頼ることなく、自費で行ったからこそ、都築先生ご自身が考えるような活動が出来た、とも言えるかもしれません。スケ連が絡んでくると、あれこれ口出しして問題が発生しかねない。その辺りは、明日ご紹介する第6章のタラソワさんのエピソードで詳しく触れる予定です。
都築先生の羽生さんへの指導は、実はスケートの技術に留まりません。そこは、最終章で明らかになりますので、そこも楽しみにしていてください。