対談の第7回は「こちら」。ここまでの6回分の感想はこちらで<第1回><第2回><第3回><第4回><第5回><第6回>。
羽生「いまフィギュアスケートをやってる子たちは、たぶんもっとスポーツとして考えているというか、『ジャンプをどれだけ跳べるか』ということを考えているような気がするんですよね。でも、表現の世界って、哲学的というか、いくら考えてもきりがなくて、どうしようもなく、とめどなく、考え続けることになるじゃないですか。一方でジャンプというのは、成功の基準が決まっているという意味では、正解が存在しているので、ある程度のところで思考は止まってしまうのかもしれないなと」
糸井「羽生さんの話を聞いてると、たくさんやれないがゆえに、アイスの上で滑る1回ずつの練習を大事にやらなきゃいけないととらえている」
羽生「そうなんですよ。それってすごく大事なことで、フィギュアスケートに限らないことだと思うんですけど、そういうことって誰も教えてくれないというか。学校の授業って逆に『漢字を10回書いて覚えましょう』みたいなことが基本じゃないですか。・・・まあ、そういう学校の教え方も徐々に変わってきているとは思うんですけど、やっぱり、大切なのは、良質な学習をどれだけ短い、限られた時間のなかでやるか。フィギュアスケートにとっては、それがすごく大事なことだとぼくは思います」
おそらく現役選手や、現役選手の親御さんからしたら、「限られた練習時間でジャンプを習得できたら、苦労しないよ!」「それは羽生さんのような才能のある人だから、できるんでしょ?」と言いたくなるかもしれません。私にもしフィギュアスケーターの子どもがいたら、「ウチの子だって毎日毎日、朝早くからがんばってるよ!」「この人なに言ってんの?」と思っちゃいますもん。
ただ、もう少し彼の意図している所を想像してみると、「ジャンプばかり求めても限界があるよ」というメッセージにも受け取れます。ジャンプというものが「正解のある分野」とは言っても、当たり前だけど、練習すれば誰もが習得できるわけじゃない。むしろ、「できない人にはできないもの」という残酷な現実を突きつけられる人の方が多いかもしれない。でも、短期間の練習でジャンプを習得できる才能の持ち主は間違いなくいて、そういう人と対峙した時に、毎日どんなに頑張っても習得できなかった自分自身の努力がまったくの無駄なものに思えて、自己否定につながってしまうかもしれない。
「正解」があるからと言って、みんながその正解にたどり着けるわけじゃない。だったら、正解のない表現の世界、哲学的な問いを考え抜いて、それこそ、「自分は何を表現したいのか?」ということに時間を割いてみてもいいのではないか?・・・そんなアドバイスのように感じました。
「自分は何を表現したいのか?」という問いは、フィギュアスケーターだけのものじゃありません。ミュージシャンや俳優だけのものでもない。仕事に限らず、趣味も含めて、人が生きていく上で避けては通れない問いですからね。
では、また明日!
Jun