ふと興味があって、購入&読了しました。本書の紹介ページにもあるように、例えば「対人関係」に悩む人に対するブッダの教えって、「あなたも、そのイヤな奴もどうせ死ぬんだから、気にすんな」といったスタイルと理解していました。
これを書いていて思い出したのが、学生時代に、大学のサークルの先輩のつてで某TV局でバイトをしていたことがあるんです。で、私は4年生になる前に辞めたんですけど、同じフロアに哲学専攻の先輩がいて、「人間いずれ死ぬんだから、就活なんてする意味ある?」なーんて言われて、当時特に怒りも嫌な気もしなかったんですけど、哲学専攻の人って面白いなーなんて感じました。その先輩の専攻が西洋哲学だったか東洋哲学だったかは覚えていませんけど。ちなみに、べつにその人の教えにしたがったつもりはないですが、結局学部を出た後、すぐに就職せずに進学しましたが。
さて本の話に戻ると、超訳というのがポイントで、かつてシドニィ・シェルダンの小説は「超訳」と銘打たれていて、あれで私は「超訳」という言葉を知ったぐらいなんですが、例えば、本書では以下のような仕上がりになっています。
怒らない 010「人を苦しめるのがいけない理由」
他人に苦しみを与えることで、ストレス解消の快感を得ようとすることが、君にもあるだろう。たとえば「次はいつ会えるかな」と聞かれて、わざと「さあ、わかんない」と答え、相手が不安になり苦しむ表情を見て優越感という快感を錯覚する。あるいは、仕事相手からの依頼メールを長い間にわたって無視しつづけて相手を困らせ、「いい気味であることよ」という快感を錯覚する。このように他人を困らせ苦しめることで、快感を得ようとする習慣が身についてしまうと、怒りの業(カルマ)が心蓄えられて、ネガティブ思考の牢獄に閉じ込められてしまうだろう。
このエッセンシャル版が出たのが2014年、その元になっている単行本は2012年発売なので、LINEの既読スルー(未読スルー)とかって問題になってたかな?と若干記憶が曖昧なんですが、そこは置いておきましょう。最初の「たとえば」以下のケースは、異性関係にありがちで、はっきり断るとトラブルになりそうだし、かといってそこまで仲よくなりたいってほどでもないし、って位置づけの人に対する「自己防衛的対応」のような気がします。相手を苦しめることが快感?それは違うんじゃないの?と。
で、その後の「あるいは」以下は、社内・社外関係なく、悪意があってのスルーか、単にルーズなだけのスルーとかいろんな人がいますけど、ちゃんと仕事している自分に否は無いのだから、上司にCCをつけて周知するなり、それなりの対応策はあるはずです。
私が何を言いたいかと言うと、ブッダの時代にメールなんてもちろん無いので、訳者の小池龍之介さんは読者の理解を助けるために、上記のような創作の場面設定で肉付けすることで「超訳」してくれているんですが、どうもズレてるんですよ。「俺の求めていたものは、これじゃない!」感を、読書の途中から感じていました。
もちろん、すべてがズレてるわけじゃないですよ。そして、おそらく、小池さんご自身の著作はもっと洗練されて、現代感覚にフィットした内容なんだと思います。でも、本作に関して言うと、この「超訳」はどうなのかな?という気がします。
で、「これじゃない」感を解消するために、以前ご紹介した精神科医Nこと名越康文先生の本を改めてパラパラめくっていたら、この本やっぱりいいなー!と止まらなくなって、結局また最後まで読んでしまいました。
まだ見つけていないだけ
あなたが味わったことのないものは、おそらく自分が生み出したものの中にある。
この本の良い所は、余白いっぱいのレイアウトの効果もあって、掲載されているメッセージを自由に解釈する心の余裕を与えてくれる所なんです。最初に読んだ時にはまったく印象に残らなかったこちらの文面の「自分が生み出したものの中にある」を、「すでに自分が見聞きしたものの中にある」と解釈してみると、まさにこの本のことじゃん!と思ったんですよね。
何か新しい刺激や発見が欲しくて本を買ったり、新しいバンドを聴いたりする。でも、「なんか違う」「これじゃない」ということはよくあって(てか、その方が多い!)、それと同時に、自分が好きで愛着のあるものであっても、まだまだ「発見できていない素晴らしさ」を秘めている、そんなこともあるんだよと教えられた気がします。
あともう一つ、初見の際に印象になかったもので、今回「新たな発見」だったのが、こちら。
優しさ2
優しさは、ビールの泡のように気まぐれでなければならない。そうでなければ、その優しさはすぐに、執着や我慢に変わってしまうよ。
誰かに優しくされると、「この人はきっとまた自分に優しくしてくれるはずだ」と思いたくなるのが人情というものですし、逆に自分が誰かに優しくしたら、「少しは感謝してほしいんだけど?」とその対価を求めたくなるのも人情です。でも、人の優しさなんて「ビールの泡」のようなもので、すぐに消えてなくなってしまう・・・。
でも、なんでビールの泡に例えたのかなぁ?と考えてみたんですが、たとえば誰かにビールをお酌してもらうとして、泡だらけだろうが、泡が足りなかろうが、別に怒るようなことでもなく、ましてや注ぎ方をネチネチ指南するなんて、昭和時代のパワハラ上司のようでかっこわるすぎる。
でも、銀座ライオンのビール注ぎ職人に求めるように、「安定した優しさ」を一般人に求めてしまうのはなぜだろう?優しさなんてビールの泡のようなものだから、それを求めてはいけない。同時に、優しさを無理して与えようとすると、見返りを求めてしまう。
なんか今回気づいたのは、私は「マニュアル的・説教なもの」はあまり好きじゃないということと、かと言って「詩的世界」に振り過ぎているのも共感できず、その中間からやや詩的寄りのものがいまの自分にマッチしているのかなーと。以上、長々とした読書雑談でした。
では、また明日!
Jun