FRaUのWeb連載企画も今回が「最終回」です。これまで関連レビューを4本挙げてきましたので、以下ご参照ください(第1回)(第2回)(第3回)(本誌)。
今回のテキストは矢口亨カメラマンによるものです。第2回に続いて「SharePractice」に関する内容なんですが、前回そういう印象は受けなかったのですが、几帳面な文章を書く人だなぁ・・・と強く感じました。
今回のテキストのタイトルは「『泥臭さ』と『優しさ』」なんですけど、何をもって几帳面と感じるかと言うと、「言葉の定義をきっちりしている」ということなんです。
仙台市の郊外にある練習拠点には、広大なスペースや最新鋭の機器があるわけではない。その中で考え、限られた環境を生かす方法を自分で見出し、地道なトレーニングを続けてきたのだろう。わずかな時間の動きを見ただけでも、羽生が濃密な時間を丁寧に積み重ねてきたことが伝わってきた。
「フィギュアスケートって華やかなイメージがあると思うんですけど、こんなに泥臭い、本当にもう必死にもがいて練習している姿があるんだなっていうのを見ていただきたいと思って」。
・・・帰りそびれた僕が重い腰を上げて荷物をまとめていると、目の前に不意に羽生が現れた。
「今日はありがとうございました」。
地道なトレーニングを続ける孤独な時間は、自己の弱点や課題に真摯に向き合う時間でもある。その過程で培われた謙虚さや自己への理解が、他者の感情や立場にも共感する羽生の能力を高めたのだろうか。羽生はいつだって優しい。
優しさとは、誰かを思いやることで感情を正確に観客に伝え、共感を呼び、心を動かすことができる力だ。被災者に向けて、コロナ禍で苦しむ世界に向けて、日常を大切にしている人たちに向けて。羽生はずっと誰かを思いながら滑ってきた。
羽生さんや、あるいは内村さんのようなアスリートに限らず、ミュージシャンでもダンサーでも、日々、泥臭い反復練習を積んでいるのは想像に難くありません。血のにじむような努力の末に成功した人たちにあやかって、私も瞬間風速的(?)に何かを頑張ろうとしたこともあります。ただ、「その努力を誰かに認めてもらいたい」と思っているうちは、他者に「優しさ」を向けるという発想にはならない。少なくとも私自身はそうで、「あの人よりも私の方が頑張っているんだから、褒めてもらいたい」みたいなことを思っているうちは、優しくなれるような心の余裕が生まれないんですよ。
でも、他人が自分をどう見ようが関係ない、自分自身には進むべき道があって、そこに向かって全集中できるようになると、不思議と「周りを見なくなっているからこそ、周りを見る余裕が出てくる」ような気がするんですよ。
他人が気になって心がザワついているうちは、「自分自身に集中できてないな」と思うようにしています。羽生さんのように、他者に対して心からの共感や感謝の意思を表示するのは簡単じゃないですけど、そうありたいな・・・とは思いますね。
では、また明日!
Jun